OM楽OM学またはオンガク

音/音楽→音/音楽=空気振動(鼓膜、皮膚、骨格)迷える耳:若桑比織 
作風:http://hanawo3.wixsite.com/fiori





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[ART]

ART≠表現、ARTk≠描写:ARTが表現なら自己表現だからナルシズム。ARTが描写なら個人的ジャーナリズム。その二つから抜け出すのが簡単じゃないからこそ、抜け出した結果としてのARTはスペシャルなんだろな。

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[エントロピー]

エントロピーの増大とは、無秩序のようでいて、増大という状態の継続=反復=模倣である。コピー増殖という生物の保存情緒と宇宙の崩壊には相似性がある。

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[現代音楽の失敗]

宇宙=集合=密度と距離として音楽を見ると、

12音技法から始まる一連の現代音楽の試みは理にかなっている。

しかし、研究の『手法』をそのまま『作品』としたところに過ちがある。

なぜならそこに『民衆の群論』を加味していないから。

そう言う意味で共産主義的である。

 

手法としての現代音楽の概念はdigital時代の到来を待ち、

ambient~electronica~droneの中で大衆文化としてゆっくり定着している。

例えばこんな風に。http://hanawo3.wixsite.com/fiori

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[無進法]

0は真実、1は概念、2は幻想。宇宙は0、存在は1、精神は2。

距離や物資は0である宇宙に発生存在し消滅することで、

宇宙の0を証明する。

精神は、それを傍観するのみだ。

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[仏教の言葉]

存在そのものが過程とすると、やはり存在は幻想。しかし物質は少なくとも瞬間には存在する。とすると、幻想的な時間=過程にも瞬間の現実はある。無は、時間の0と空間の0の両方を示しているが、同じ意味であり、幻想的な過程が時間にも空間にも存在し、その瞬間を宇宙というのかもしれない。その瞬間がどんなに長くとも、無以前無以降とはくらべようも無く短いため、それは在るようで無く、無いようで在る。一切皆空、諸行無常、浮世という言葉は、それを伝えている。

posted by 迷える耳:若桑比織 13:38comments(0)|-|





[理性の正体]

理性は幻想。個体保存で優位になった知覚アルゴリズムにプライオリティが出来て、コピー範囲が広がっただけ。言わば、数式の流行。2017年現在は、暴力的なアルゴリズムが流行の兆し。平和の数式は果たして金か文化か、それとも愛か。

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[物質のステータス]

ビッグバンで生じたエネルギーには限界がある。そもそも無の中に物質を存在させるのは荒唐無稽な発想で、ビッグバンの膨大なエネルギーが置換されて物質になっている。つまり、物質は、エネルギーからエネルギーへ伝達する過程に過ぎない。熱エネルギーには限界があり、つまり簡単にいえば燃料切れで宇宙は収縮する。バブル経済のように。

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[文明論]

自我精神とは知覚の束である。知覚は電気刺激の数式化である。記憶は数式のコピーであり、理性は数式を連結させるアルゴリズムである。理性のコピーは時間軸上は遺伝や歴史と呼ばれ空間上は社会やは文化と言う。共有されやすい理性はプライオリティを持つ。それを文明という。

posted by 迷える耳:若桑比織 11:44comments(0)|-|





[無∞無]

我々の宇宙は無の中に生じた点から現在は無限に向かって広がっているが、

ある時また無に向かって収縮する。

それは反転でもあるが無から無への一方向でもある。

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[存在について]

距離-interval-が無ければ宇宙は点となり、物質も時間も存在しない

posted by 迷える耳:若桑比織 11:41comments(0)|-|





[次元のinterval]

現実的な物質と形而上学的な距離は密度という概念で結びついている。存在自体が不在の証明をしている。有は無、無は有。intervalとは密度か。

 

天文学では時間=距離である。無から始まった宇宙に距離が発生したのは宇宙自体の拡散の遠心力による。intervalと力学か。

 

距離=時間=力学とすれば宇宙の中心から遠い星ほど時間や物質や距離の結びつきは弱くなるのではないか。intervalとは次元か。

posted by 迷える耳:若桑比織 09:45comments(0)|-|





[現代政治論]

意見=自己実現 信念=自意識 と言い換えてみる

→イデオロギーは表現活動である。

 

政治は表現活動ではない。

 

意見は要らない。信念も要らない。目的と方法があればいい。

そのための、検証、分析、研究、計画、実行、そしてまた検証。

そのサイクルの人的なシステムを作ることを、

これからは政治活動と言う。

その集団を、政党と言う。

その人材を、政治家と言う。

その全体を、政治という。

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[集合、密度、距離]

集合論的に世界を見る。点の密度の偏在と距離関係の集合体。三次元は二次元。

 

集合論的に音楽を聴く。音の密度の偏在と音程関係の集合体。密度は強度と音程の距離と振動の力学。

 

集合論的に自己を想う。言葉=意味の密度の偏在と価値格差の集合体。無段階な是非の連なり。

posted by 迷える耳:若桑比織 22:02comments(0)|-|





[-interval-理論についてのメモ]

『仮説:自己とは意味の-interval-の偏移である。』

自己は認識の偏移である
↓←認識は意味の-interval-の集合である
自己とは意味の-interval-の偏移である


『世界は熱エネルギーの-interval-の偏移である』

物質とは密度のことである
↓←-密度は-interval-の偏移である
世界は物質の-interval-の偏移である
↓←地球上の物質は熱エネルギーの置換である
世界は熱エネルギーの-interval-の偏移である


『文明とは人間の-interval-の偏移である』

政治は人の自己保存欲求の集合密度の偏移である
社会は人の自己承認欲求の集合密度の偏移である
文化は人の自己実現欲求の集合密度の偏移である

欲求とは人間の個体と認識の集中密度を編成するシステムである
↓←-密度は-interval-の偏移である
文明とは人間の-interval-の偏移である

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[演歌作詞]

おんな

 

つまらんことばのきれはしに
ぶらさがってるばかおんな
じぶんのことはたなにあげ
あたまのなかみははなばたけ
きょうもくちだけつよがって
ひっかけるのはだめおとこ

 

おとこ

 

おやのこころにそむいてか
うまれついてのなまけもの
こうべをたれてはぐちをはき
つるんだときにはいせいよく
ひとりよがりにつかれはて
うたえるうたはわらべうた

 

くに

 

ふりさけみればかすがなる
ふじのたかねのはなだいて
にしのおやまにめをやれば
ふもとのくさのからっかぜ
わすれたうたのつぐないに
いなかしばいのひとくさり

 

こくみん

 

てんかこっかをうれいつつ
めくせはなくそわらいつつ
くちをひらけばぴよぴよと
たりきほんがんわがままに
かぜのうわさにまいおどり
ひとよのまつりによされぶし

 

さけ

 

さけはなみだかためいきか
ひとりごちてはうらはらの
うきよにゆめをおいかけて
ころんでおきてはまたころぶ
ちよにやちよにくりかえす
さけはてんかのまわりもの

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[インターヴァル試論:文学、舞踊、絵画、音楽]

-interval-とは空間的な隔たり、間隔、距離であると同時に、時間的な隔たり、間隔、合間でもある。さらに、隔たりは、差異や格差や差別化と相似させうる。つまり、音楽における音程、旋律、和音、リズム、アクセント、全てが-interval-でできているとゆうことになる。この理論において、西洋音楽における様々な『手法』と、日本音楽における『間』は、-interval-の概念においては違いが無い、とゆうことになる。この、-interval-の本質を注視しつつ拡大していくと、言葉(意味のinterval)、舞踊(位置のinterval)、絵画(色彩のinterval)、そして音楽(音のinterval)は全て、同じ力学的要素から構成されていることがわかる。このinterval理論を発展させると、あらゆる芸術活動を、同時に、あるいは並行して、または遠隔的に、または歴史的に関連させ、一全く一つのものとして研究し、あるいは創造することができるのでは無いか。

posted by 迷える耳:若桑比織 12:45comments(0)|-|





[音楽と人類]

今より確実に聴覚能力が高かった古代人にとって、例えばあるときは岩山の崖に、あるときは森の硬い木や岩に、あるときは海岸線の切り立った岩礁やむき出しの岩盤に、あるときは凍った雪の壁に、そしてあるときは洞窟の中の鍾乳石に、跳ね返っては干渉するディレイとフェイズで強調された自分の声の倍音や、石器や木製の道具の打音による律動とゆうのは、相当に神秘的で、かつ悦楽に満ちたのもであったに違いない。その中から、幸福な瞬間を切り取り、模倣し、反復し、次第にリズムやハーモニーやフレーズが次第に生まれていったとしても不思議はない。モノフォニーからポリフォニーへ、と言うのが近代音楽史的には都合のいい進化論的な定説だが、言葉、リズム、声、肉体を伴う音楽の話となれば、人類の社会学的な変遷とともに、必ずしも我々が考える『音楽的な』複雑さや表現性の発達が、リニアに人類学的な進化と並行しているとは限らない。むしろ、同一音程で唱える呪文のようなモノフォニーは、ある程度人類社会が発展し、『言葉』や『神』を発見し、『知』や『法』を伝えるようになってからできたのではないかとの想像もできる。音程だけでなく、リズムや和音や構造も、人工的な音響の一連から『音楽』を切り取る長い長い時間をかけた人類の作業の中で、様々な音楽的要素の離合集散を経て、今たまたま、確定したリズムと3和音と5音ないし7音階的が主流になっているだけで、音楽の主流がいつまた、西洋音楽的には『原始的』な、モノフォニーや、乱雑なリズムや、無段階音階に移行するかもわからない。実際、HipHopのライムは、音程がないとも言えるが、無段階音階だとも言える。最近は珍しくなくなってきた民族打楽器や、ホーメイ、口琴、ディジュリドゥーなどのいわゆる倍音楽器の『先進国』での近年の定着も、その予兆かもしれない。音楽の進化論は、時代考証や音楽学的な論考そのもの以外に、数だけではなく特徴的な『今』を、時として路上から、時としてインターネットから、注意深く抽出していかなければ成立しないように思われる。この考え方は、文化人類学全体に対して警鐘隣うるもので、つまり、絶えず脱構築することが義務付けられていると言える。

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[龍馬の手紙]

『・・・で、ちょいツルみで話すべ、っつって。俺ら、そんとき寺田屋泊まってたわけで、まあ、酒のみながら話しして。話っつっても酒入ってグダグダになってって、後半なんてもう、食いもんとかエロ話。そしたらさ、そこに嫁が、いきなり裸で部屋入って来て、「⁈おま、何やって、、、」「アンタ逃な!」そしたらドヤドヤと入ってきたわけ。デクノボーが。イマドキの京都のヘナヘナ侍が。「過激派は違法だ。テロ準備罪で逮捕する。」「え?普通に出張なんですが、、、」とか言ったけどまあ、バレるわな、このナリで。このデキで。このテイで。で、都のヘナヘナがヤッパ振り回すけど、俺ほら、チャカだからさ、武器。パンパンて2人死んで。でも、無駄に数だけいんだよ、都のへナヘナ。で、ツレの三吉が、また、使えねー。おれ怪我するし。とりあえず、逃げたわけ。こっちはほら、逃げるの生活の一部だから。向こうはほら、都のヘナヘナだから。で、ついでだ、っつって、嫁と、お龍、ってんだけど、そのまま九州まで温泉旅行したさ。それがまあ、日本初の新婚旅行、って後々語り草になるとか、笑えね?兎に角、京都はヤバイな。とりあえず、寺田屋は、もう行かね(笑)

 

あたの Ryoma より   』

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[個と全体]

政治論、人権論、経済、科学、ジェンダー論、そして文化論芸術論も、現代において社会に関連して言説をするとき、思考する個人の自己滅却と、実証データが伴なわないと、公正な発言にならないのではないか。結果、慣習やシステムに対して脆弱になるのが問題だが、それも、社会を個人の集積とみるか、外的な枠組みと見るかで変わる。結局、個人とは何か、という問題を突き詰めると、自己存在自体が集団意思の総体の抽出であり、社会自体が自己存在であり、個人とは社会認識の差異でしかないのでは無いか、と言う結論に至る。すると、集団と個人、社会と人間、他者と自己、という二項対立は成り立たなくなる。結局、社会批判は自己批判であるべきであり、自己を理解するには社会構造の研究と、世界からの視線から逃れることは出来ない。『全体性』という古くて新しい命題は、いつも社会学的にホットで、それはそのまま世界の問題であるだけでなく、自己存在そのものに関わる問題であるから。

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[宇宙の図書館]

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宇宙の図書館から一冊の本が取り出されそれはつかの間命をやどす。

 

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図書館には無限の本が有り、そこからは無限の意味が生まれる。

 

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やがてそれらは衝突し交わり編集され、新しい本が無限に出来る。

 

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本の大きさや厚みはさまざまだが、重さは大体同じに出来ている。

 

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どの本も長持ちはしないので、絶えず写本されなければならない。

 

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すべての本は『意味と現象』シリーズとして通し番号が振られている。

 

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サブタイトルは簡単な馴染みやすい物から、とっつきにくい難解なものまである。

 

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編集された新しい本が出来ると、古い本は図書館にもどされる。

 

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本が増えると図書館が増築され、そのために宇宙が狭くなる。

 

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宇宙の図書館は貸し出し自由だが、返却義務には厳しい。

 

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[存在の原理:全体意志]

原始地球の海の原形質スープの中で、同じ個体を複製しようとした最初の細胞の目的が、限定された個体の特異性の存続維持だとしたら、それは生物最初の欲求とゆうことだから、それこそが、最初の『意志』とゆうことになる。だとすれば、科学的な分子配列をコピーするとゆう事が、『心』や『感情』とゆうものの基礎になっているばかりで無く、『分裂』が『存続』を、『複製』が『固有』を、『複数』が『単数』を保証するとゆう、まるで宗教哲学的な領域が、生物学や科学や数学とイコールだとゆう事になる。そもそも固有の細胞すら持たないウィルスの中に、DNAより原始的なRNAのみしか持たないものがあるとゆうことは、AGCU4つの単なる塩基の中に、分子構造の中に、原子核と電子の関係性の中に、さらにはその奥の陽子や中性子のどこかに、記憶や体験が、メモリーあるいはコピーされているはずで、あるいはそのどこでもない領域が、『ダークマター』とよばれる場所なのかもしれない。もしそうであればあるいは、地球が始まってかれのすべての歴史情報が、地球上に存在するすべてのものの中で、すでに共有されている可能性もある。いやさらに言えば、宇宙の記憶までもが。そこにビッグバンなる大音響から宇宙が始まったとされる、哲学の謎も紐解かれるのかもしれない。ここで、宗教と科学と哲学と歴史と数学と生物学と芸術が、まったく同じ領域であるとゆう、ひとつの思考性も生まれる。この先には、とても危険な領域も潜んでいる。いわゆる『人間的』な決め事、罪と罰、愛と憎しみ、そして生と死さえ、取るに足らない幻想であるかもしれないからだ。それを信じずあくまで『人間的』であり続ける姿勢こそが、地球とゆう惑星の『行動倫理』や、さらに言えば『宇宙意志』のようなものに、あらがっているだけなのかもしれない。宇宙が人間の考える『平和』を求めているかは、個人の感覚的な部分であり、それを仮に『自由』とよぶのなら、それぞれの『平和』のカタチ、そして『正義』と『悪徳』の区別も、個人の『自由』に帰属する。そして、それは永遠に分裂し数を増やし、決して同じにはならないようでいて、その実、どちらに転んでも、結局ひとつのものでしかない、そうゆう構造全体を、あえて、『和』とか、『有』とか『在』とゆうのかもしれないし、その制御された制御不能を、『無』とゆうのかもしれない。そんな広大な『無』の領域の中で、人間存在なる幻想的なものが、相互理解できるもできないも、当たるも八卦当らぬも八卦、自分の説を曲げてまで、付和雷同、唯唯諾諾、党同伐異、足並み揃えることは不可能だ。つまり、自由とは、無のことなのかもしれない。

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[自己滅却の可能性]

ソシュールの言うように、言葉の機能の限界が差異のみであるとすれば、言葉の下部構造である思考もそれに準ずる。思考する脳としての個人もまた、社会の皺というか、全体性のズレやブレに過ぎないのでは無いのかという疑念が生ずる。すると、不思議なことに、人が人によって生かされるというヒッピー思想も、人は社会の一部という共産主義も、社会は人の全体という資本主義も、地球はひとつの生命体という自然主義も、宇宙は大きな点であるという天文学も、ミクロはマクロであるという量子力学やインド哲学も、この考え方のもとでのみ、矛盾なく同居できるという寸法だ。そしてOMというその名の通り、宇宙そのものが、更に大きな『無』の中にたまたま起きたノイズだとすれば、アレもあり、コレもあり、清濁併せ呑んで人事を尽くし、または尽くさず、自己への集中を社会の研究と同化すれば欲望もまた自己滅却。そして、まさしく淡々と営む日常そのものが方法であり結論であり得る。つまりそれ、泰然自若、身心脱落の境地に至らん。

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[魂のレジデント]

自己は魂の入れ物ではなく、魂の、社会に向けた翻訳である。つまり、自己とは社会の最小単位であるということ。魂というものがあるとして、それは社会存在としての個人はもちろん、知覚される自分とも、必ずしもイコールではないのではないか。自己が魂に乗っとられた時、その自分は社会規範や、正常な人間の行動原理から逸脱する。それが存在として純粋とかそうでないという問題ではなく、単にバランスの話。さらに、純粋とは何かというと、精神論的には自己の意思への忠誠、生物学的は肉体性への集中、人文科学的には、その相互作用である思考と行動の連携の正確さ。で、魂の純粋とは何か。魂が無形で熱エネルギーも情報伝達機能も有さない存在であるなら、そのこと自体が純粋さであり、その純粋さ故に、自己存在と矛盾するばかりか、むしろ反発しあうのではないか。要するに、人間は、個の存在それ自体に、衝突と軋轢を内包し、崩壊の恐怖に絶えず晒されているわけである。純粋な宇宙的存在である魂を、サルから進化した霊長類なる仮定の進化水準の言葉に翻訳するという荒唐無稽なトライアルを自らに課したのが、人類の苦難と栄光の始まりではなかったか。それはまさに受難-passion-であるが、その引き裂かれた痛みと、同一化を願う苦しみそのものが、愛とエロスなら、それに甘んじ享受するのも、耽美の極み。つまり、人類は耽美的だ。唯一の間違いは、神の愛-αγαπειν(アガペー)-を期待すること。神は、いない、あるいは、死んだ、あるいは不在そのものが神だから。同じ意味で、魂からの見返りは無い。一方的に魂に奉仕するのが人間である。すなわち、人は皆、司祭である。

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[即興演奏としての詩作/自動筆記]

『地球と交わった夜』

 

廃業したガスステーションに止めてある銀色のトレーラーに気を取られている隙に/目もくらむ早業で俺はそいつの横をすり抜けた/そいつは赤いトマト汁を垂れ流しながら酷く猥褻にこちらを見て笑った/がきんちょの悪いところは軽い頭で逆立ちすることだ/壁に書いたスローガンにむけそいつは水鉄砲を打つ/苛立った俺はそいつのチャリをクラッシュ/音もなく潰れ茶色い虫の子供達がそこから湧き出た/虫たちがちりじりに走っていくひびの入った道路の両側には有刺鉄線/右が使われていない広大な軍用地で左には中途半端に草の生えた砂漠が広がる/スタンドのない俺のチャリを道端に置き去りにして有刺鉄線の裂け目から砂漠に入り/給水塔とガスタンクとスクラップ工場を抜けて目的地を目指す/サボテンの林を過ぎ三つの丘を越えしょぼい洞窟をくぐるともう一つの町がある/町の入り口にはNEW WHITE ROADの看板/それがこの町の名前なんだろう/ころがる植物に寂れたバーに馬のいない馬屋/うってつけの道具立てにおれはうっとりして微妙に失禁/メインストリートの突き当たりには水の出ない噴水広場と教会/聖堂を回り込んだ窪地に水草の浮いた汚い緑色の池があり/果たしてその向こう岸に『ベルベットの言い訳』とゆうその店はあった/バルコニー付きの二階建ての南部風の白い建物には窓がたくさんあり/全ての窓を違う色のカーテンが閉ざしていた/趣味の悪い紫の開き扉をあけると大きな階段に面した広間/下着にキモノ風ガウンのじいさんが出てきてこちらへ笑いかけたが目は左右で違う方向を見ている/誰かがここへ来る目的は一つしかないので向こうもこっちも無駄な時間は使わない/じいさんは二階を指差し黄色いキーを渡すので大げさな階段を上って二階へ行く/二階には赤い扉の部屋緑の扉の部屋黒い扉の部屋オレンジ色の扉の部屋水色の扉の部屋茶色い扉の部屋/そして西側の端に黄色い扉の部屋がありその鍵穴に黄色いキーを挿して回しそのまま扉をあける/そこは崖のふちになっていておれはそこからジャンプ/エメラルドグリーンと乳白色が混ざり濁った水に飛び込む/少し冷たいが心地いいその谷間の池にはカリフォルニア娘が三人/トップレスに下の水着はつけていてやたら健康的にビーチボールで遊んでいる/そのうちこちらに気がつき笑うのをやめ手招きする/近づいていくと一人は顔にうっすらヒゲがあり一人は右目が義眼一人はアジア系と白人の混血/あっというまにずぶ濡れのおれの服を脱がしてしまい池の向こう側の谷底へ捨てる/おれはそいつらの下の水着を全部脱がし谷底へ投げ捨てる/いっせいに笑い出すその顔がさっきのがきんちょを思い出させ俺はすっかり気分が悪くなる/ちぇっ!あのクソガキと悪態をついたのもつかのま女どもはおれからあらゆるものを搾りとろうとする/命からがら岸へ這い上がるとあたりは薄暗くなり始めていた/名前のわからない虫たちの鳴き声とオレンジ色からバイオレットの無段階グラデーションの空の色を眺め/おれは自動的に全ての体液を大地へ返した/GOD SPEED!地球と交わった夜。

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[アートの使命]

意識は肉体を制御するが、肉体もまた意識を制御する。また、無意識や感覚反応が肉体を制御するとき、外面と内面は不可分である。感覚と無意識が近いものだとしたら、現実的で物理的な存在としての自己は、精神的、心理的存在としての自己と不可分であり、情動と行動は同一のものとなる。そこに、意識としての肉体と、肉体としての意識の、相互補完が行われる。この相互補完が不完全、または、障害が生じた状態を、精神疾患とよぶのではないか。ここで、ひとつの片手落ちに気づく。即ち、精神疾患は、精神にとっての肉体性の喪失であるから、肉体もまた、精神を喪失しているはずで、とすれば、精神疾患は、そのまま肉体の疾患をきたす可能性を持つ。とすれば、神経系そのものにアクセスする危険な治療法をとらずとも、肉体に対する薬学的、反射的治療法の有効性が期待できる訳だ。さらに、肉体に対する感覚治療法の領域が存在するとすれば、それは取りも直さず、医学と心理学と体育と芸術がリンクする地平である。全ての芸術家、いや、少なくとも社会意識のある現代の芸術家は、この概念に目を背ける事が出来ないのではないか。

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